「出来のよくないものをお客さんに見せるほうが(台本が)遅れることよりもよくない」。原稿の遅さで有名な劇作家の井上ひさしさん。ある芝居で井上さんの台本が遅れてしまい、初日に間に合わなかった。怒る劇場支配人にこう反論したそうだ▼井上さんは「遅筆堂」。もう一人の筆の遅い脚本家はペンネームをからかってか、こんなあだ名があった。「遅坂(おそざか)」。「天下御免」「夢千代日記」などの早坂暁(はやさかあきら)さんが亡くなった。八十八歳▼「天下御免」の源内(山口崇)さんや右京(林隆三)さんの顔が浮かぶ方もいるだろう。もう一度見たい名作だが、ビデオが高価な時代で重ね録(ど)りしてしまい、NHKにも残っていないと聞く。残念▼「夢千代日記」の夢千代(吉永小百合)は胎内被爆者である。早坂さん自身、原爆投下直後の広島を目撃している。そのむごたらしさをどう描くか。作家としての原点だったが、滑るように書けるものではなかっただろう▼祈り。怒り。人間とは何か。行きつ戻りつ、書いては直しの刻むような筆であったに違いない。「遅坂」の名は作品とぎりぎりまで格闘した証しである▼「夢千代」が現在放送されたなら視聴率はどうだろう。奇抜な筋、派手な演出とは無縁のドラマは今の時代には苦戦するか。静かに深く人を描く。落ち着いたドラマが茶の間にあった時代の良き脚本家との別れが寂しい。