<私たちには耳は二つあるのに、口はたった一つしかないのはなぜか。それは、より多く聞き、話すのはより少なくするためだ>と、古代ギリシャの哲学者キプロスのゼノンは説いた▼物理学者にして随筆の名手・寺田寅彦は短文集『柿の種』で、<眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようにできている。しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。なぜだろう>と問い掛けた▼いずれも耳をめぐる妙味たっぷりの警句だが、実は私たちの耳の進化の歩み自体、味わい深いものだ。それは元来、体の平衡を保つための感覚器として生まれたというのだ▼解剖学者の岩堀修明さんの著書『図解・感覚器の進化』によると、重力を感じ、体の傾きを感知する平衡覚器は、生物の進化の歴史の中でも最古の感覚器の一つ。そこに水の流れや振動を感じる感覚細胞が加わり、さらに陸に上がった脊椎動物には、空気の振動を伝えるための「中耳」が生まれたという▼その中耳をつくるために使われたのは、エラ。陸では不要になったエラや周辺の骨の一部が転用されたそうだから、私たちの耳の中では「エラのかけら」が働き続けているのだ▼口より耳を働かせているか、耳を閉じずに聞き、平衡感覚を働かせているか、と自問しつつ、わが両耳を触ってみる。きょうは三月三日、耳の日だ。