謹賀新年。一九五八(昭和三十三)年といえば二〇一八年から数えて、ちょうど六十年前である。石垣りんさんにこんな詩がある。「女湯」。<一九五八年元旦の午前0時/ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場はぎっしり芋を洗う盛況。>▼東京では、内風呂もまだまだ少ない時代である。大みそかの間際まで新年を迎える用意に追われていたか。湯屋で年越しになるということも珍しくなかったのだろう▼<それら満潮の岸に/たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡/新しい年にむかって泡の中からヴィナスが生まれる。>。銭湯の高い天井に反響した、けたたましい笑い声が聞こえてくる。その笑い声は高度成長期に向かうその年の空気だったにちがいない▼流行語の「もはや『戦後』ではない」はその二年前の五六年。貧しさも残っていたはずだが「女湯」の明るさには戦禍も遠く去り、日々の生活をかみしめる喜びも含んでいただろう▼さて六十年後の「女湯」に笑い声はあるか。景気は悪くはないというが、政権に恩を着せられるほどの実感はない。人口は減る。高齢化は進む。北朝鮮情勢は見えぬ。平和とは無縁な勇ましい言葉も聞こえる。ぼんやりした不安が消えない▼二〇一八年の笑い声を想像する。笑い声の中にはあきらめややけっぱちな気分が混じっていないか。聞き耳を立て続けるとする。