ノーベル文学賞を過去に辞退したのは『ドクトル・ジバゴ』などの旧ソ連の作家、ボリス・パステルナークとフランスの哲学者サルトルの二人だが、パステルナークは旧ソ連に返上を迫られ、やむなく辞退した経緯もあり、実質的にはサルトルひとりということになるだろう▼サルトルが辞退した理由の一つは「生きている間に神聖化されたくない」ということだったらしい。権威ある賞の栄誉にあずかれば、息苦しい上、さらなる高みを目指す妨げにもなるかもしれぬ。そんな判断があったのだろう▼先に引退を表明した野球のイチローさん。国民栄誉賞をやはり辞退する意向を政府に伝えたそうである。二〇〇一年、〇四年に続く三度目の打診にも首を縦に振らなかった▼これまでは現役選手であることを辞退の理由にしていたが、今回の理由は「人生の幕を下ろした時にいただけるよう励みます」。なかなかの名言である▼言い方は異なるが、どこかサルトルと似ているか。野球選手としての現役は終わったが、それは自分の人生の一つの通過点にすぎないとお考えなのだろう。別の何かでなお高みを目指す。「人生の幕を下ろした時に」という言葉は新たな挑戦への意思表示だとお見受けした▼辞退が残念とは思わぬ。どんなに辞退されようとも、国民は政府と関係のないところでその賞を歴史上最高の選手に既に贈っている。

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