「人というものは、はじめから悪の道を知っているわけではない」。池波正太郎さんは火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)の長官(おかしら)にそう語らせている。『鬼平犯科帳』の一編から引いた▼平蔵の部下である与力がこともあろうに人を殺(あや)め、悪の道へと転落する。「何かの拍子で、小さな悪事を起こしてしまい、それを世間の目にふれさせぬため、また、つぎの悪事をする。そして、これを隠そうとして、さらに大きな悪の道へ踏み込んで行くものなのだ」。人を悪の道へと導いてしまう「何かの拍子」が憎い▼いったいどんな拍子やきっかけが襲い掛かったのか。東京都台東区で高校三年の少年が交際していたとみられる同級生の女子生徒を殺害したとして逮捕された事件である▼少年は殺害後、現場マンションの部屋に火を付けたという見方がある。つぎの悪事、さらに大きな悪の道へと踏み込んでしまったのか▼少年のスマートフォンに「油での火の付け方」をネットで検索した形跡があったと聞く。時代とはいえ、その幼さと過ちの大きさの不釣り合いが悲しい。事件の前に少年がその便利な道具で、検索すべきは「心の落ち着かせ方」や「人の命の重さ」だったはずだ。それに気が付かなかった▼明るい笑い声が似合わなければならぬ年ごろである。亡くなってしまった女の子のために時計の針を戻してあげたい。そして、その少年のためにも。