正直にいえば、このコラム、甲子園球場にプレーボールのかかる二時間前から書き出している▼禁じ手かもしれぬ。どちらが勝ったか。どんな結果になったか。それを見ずして野球は書けぬ。結果がすべて。おおげさなことをいえば、人の営みのすべてが結果によって判断されてしまいやすい▼決勝戦の終了を待たなかったのはどんな結果であれ、この夏、その高校が見せた輝きは色あせまいと思えたからである。秋田県立金足農業高校。秋田県勢としては百三年ぶりとなる決勝戦進出までの過程でわれわれの胸に大きな何かを残してくれた▼縁もゆかりもない人びとが秋田の農業高校に惹(ひ)きつけられ、がんばれと声を上げたのは、その有利とはいえぬ野球環境のせいかもしれぬ。雪深い地域では冬場の練習は難しい上、公立の農業高校では選手の確保も楽ではなかろう。高校で初めて硬式球に触れるような地元出身者を鍛え上げてここまで来た。選手交代をせず、九人だけで戦ってきたのも選手層の薄さもあったに違いない▼準々決勝の対近江高戦。スクイズで三塁走者に続き、二塁走者まで生還した場面。ベンチの事前の指示ではなく、二塁走者のその場の判断と聞いてうれしくなる。そのベースボールは泥くさくも自由で朗らかに弾んでいた▼試合終了のサイレンが聞こえる。そうか大敗したのか。それがなんだというのだろう。