作家、演出家の久世光彦(くぜてるひこ)さんが「町の音」というエッセーの中で好きな町の音を一つだけあげろと言われたら「私は躊躇(ちゅうちょ)なく、この音と答える」と書いている。「夕食の支度をする音」だそうだ▼水を使う音、茶碗(ちゃわん)の触れ合う音。鍋の蓋(ふた)をとり落とす音。「この歳になっても、秋、金木犀(きんもくせい)の向こうに、湯気に煙った窓があり、そこで夕食の支度をしている音が聞こえると、ふと涙ぐんでしまう」▼よく分かるという人もいるだろう。夕食の支度をする音の中に久世さんが聞いたのは、幼き日、たとえば、秋の夕暮れ時、家の中で耳にしたかつての家族の声や息づかいなのかもしれない▼「金木犀の向こうに」とある。「プルースト効果」も涙の原因か。人が香りによって遠い日の出来事をまざまざと思い出す現象をそう呼ぶそうだ。プルーストの『失われた時を求めて』の中にある、紅茶に浸したマドレーヌを口にしたとたん、遠い昔のことを思い出すという場面からきているらしい▼彼岸の中日も過ぎ、金木犀の甘い匂いが濃くなってきた。われわれにはやはり、マドレーヌよりその小さな花の甘い匂いの方が「失われた時」への入り口になりやすいか。秋の懐かしい匂いをしばし楽しむ▼東京の阿佐谷。久世さんの生家があったあたりを歩いてみる。金木犀の匂いはちょっとだけした。夕食の支度をする音の方は聞こえなかった。