「正岡という男は一向学校へ出なかった男だ」。夏目漱石がそう書いている。大学時代のことか。正岡とは親友、正岡子規のことである▼子規は授業のノートを借りもしない。試験の時はどうしていたか。「試験前になると僕(漱石)に来て呉(く)れという。僕が行ってノートを大略話してやる。ええ加減に聞いて、ろくに分(わか)っていない癖に、よしよし分ったなどと言って生呑込(なまのみこみ)にしてしまう」。漱石の人の良さとのんきな子規がほほ笑ましい▼旧制第一高等中学校(東京大教養学部の前身)で教えていた、哲学者松本源太郎の手帳が見つかった。中に漱石、子規ら教え子の「論理学」の試験結果が残っていた。それによれば漱石は八十点と九十点でトップ級。さすがである▼気になるのは当時、野球や寄席通いに夢中だった子規の点数の方だろう。七十四点に八十二点。おおノボさん、がんばった。漱石とさほど差はない。もしかして付け焼き刃の「生呑込」作戦がうまくいったんだろうか▼一八八八年、八九年の試験らしい。八九年といえば、子規が肺を病んで、初めて血を吐いた年である。「その後は脳が悪くなつて試験がいよいよいやになつた」と「墨汁一滴」にある。つらい時期の試験だったかもしれぬ▼泉下の学生たちには、はた迷惑な発見か。されど、百三十年前の青春の一こまを想像したくなる価値ある「閻魔帳(えんまちょう)」だろう。