「灯を凝視しつつその美しさを観照したまえ。瞬(またた)きしてこれをいま一度見直したまえ。そこに君の今見ているものは前にはなかった、そこにかつてあったものはもはやないのである」▼そんな言葉を残したのは、レオナルド・ダビンチ。美と知の巨人にとって絵画とは「自然の存在の移ろいやすい美しさ」を、永遠に留(とど)めておくための術(すべ)だったという(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫)▼この絵も、はかない灯のように消えてもおかしくない運命だった。ダビンチ作「サルバトール・ムンディ(救世主)」を所有していた十七世紀の英国王チャールズ一世は、斬首された▼十八世紀半ばから百四十年近く所在不明となり、再び現れた時は巨匠本人の作とは思われなくなっていた。作品はひどく傷み、一九五八年に売られた時の価格は四十五ポンドというから、物価上昇を考えれば十数万円▼それから半世紀また行方知れずとなったが、再び世に出てダビンチ作と確認されると転売のたびに高騰し、きのうの競売での落札価格は五百億円余というから、ため息が出る▼落札者は明らかにされず、この「人類の宝」が今後、公開されるかも定かではない。ダビンチは「誰より多く持っている者は誰より失うことを恐れる」との言葉も残したそうだが、この絵を我が物にした人物は、「救世主」に心の平穏を得ることができるか。