苔(こけ)は、なぜ生まれたのか。それは、<地球がみどりの着物をとても着たがっていたから>と書いたのは、一九九五年に八十九歳で逝った詩人・永瀬清子さんだ▼詩人は、よほど目を凝らして苔を見つめていたのだろう。「苔について」と題した詩で、その生態をこう描いた▼<極微の建築をお前はつくる/…茎の中に/秘密の清冽(せいれつ)な水路があって/雄の胞子はいそぎ泳ぎ昇って 雌の胞子に出逢(であ)うのです/大ざっぱすぎる人間には そのかすかな歓(よろこ)びがすこしも聴えないけれども->▼そんな苔のかすかな声を聴き取ったのは、基礎生物学研究所の長谷部光泰教授らだ。「茎の中の秘密の水路」ではなく、茎と葉の微細な隙間による毛細管現象で水が下から上へと運ばれることを発見した▼その水があって苔の精子は泳げるのだが、茎と葉の間隔を決め、精子のべん毛の形成を司(つかさど)るのが、同じ遺伝子であることも突き止めた。この遺伝子は植物の進化の過程でいったんは役割を終えたが、被子植物では花をつくる遺伝子として働いているという▼長谷部教授によると、役割を失って「手ぶらになった遺伝子」が新しい機能を生み出すのは、進化の定石だという。<詩の出現とは、必ず余白の出現である>とは、詩人・北川透さんの言葉だが、「遺伝子の余白」が花を出現させたとすれば、すばらしく詩的な進化の物語ではないか。