その方の「十八番(おはこ)」として、どんな演目を選ぶべきか。二〇一四年の引退公演(大阪)は、「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の「桜丸切腹の段」だった▼「これを語ってお客さんが泣きはらなんだら、太夫の責任、やっている者の力が足らんということです」。そう語っていらっしゃるのなら、やはり、十八番は自分の不始末を苦に切腹する、桜丸の悲劇を挙げておくべきなのか。人形浄瑠璃文楽の太夫で人間国宝、文化勲章受章者の竹本住太夫(たけもとすみたゆう)さんが亡くなった。九十三歳▼稽古の人である。悪声だとご自分ではおっしゃっていたそうだが、その味のある声こそが情を深く伝え、人形たちに心を吹き込んでいた▼「十八番はない」。お書きになった本にそうあった。好きな演目はたくさんある。「桜丸切腹の段」もそうだ。しかし、十八番、得意芸と呼べる演目は一つとしてないのだという▼芸歴は六十年を超える。それでも、「これでええ」と納得できる境地にはたどり着かぬという。十八番がないとはさらなる高みを目指すという太夫の覚悟だったのだろう。「なほになほなほ」。座右の銘の一部である。その通りにもっともっとの人生を終えた▼いや本当だろうか。「死んでからも稽古や」の人である。芸を磨くにはそれほど時間がかかるという意味なのだろうが、あの文楽の鬼ならば、今も見台に向かって声を出し続けている気がする。