川端康成はノーベル賞受賞を知らされた夜、書斎で一人句をしたためている。<秋の野に鈴鳴らし行く人見えず>。巡礼の鈴の音だけが響く野を詠んでいるのだが、野に鈴(ベル)で「ノーベル」と織り込む言葉遊びだった▼受賞の知らせに<これはえらいことになった>と驚いた。そこから筆を執ったという。<戯れの句の楽書きではあっても、書は身心を統一し、高静する>。随筆『秋の野に』などで振り返っている▼<作家は無頼、浮浪の徒であるべきだ。栄誉や地位は障害である>とも書いた。そんな川端にとっても、この賞ばかりは、平常心を多少なりとも揺るがせるほどの権威を持っているのだろう▼以来五十年がたつが、その権威が失墜する事態が、起きている。関係者のセクハラや受賞者名漏えい疑惑で毎年秋にある発表が、一年先送りされた▼ノーベル各賞の中でも文学賞はひときわ選考が難しい。言語の壁を乗り越えなければならないし、文学とは何かの線引きも困難だ。無頼の作家が、反社会的ながら価値ある作品を書くこともある。選ぶ側に権威や信用がなければ、選考は成り立たないだけに深刻だろう▼日本人作家の受賞も期待されている中で、信頼回復にはまだ時間がかかるようにみえる。川端には、同じ趣向の別の句もある。<夕日野に遠音(とおね)さす鐘も秋深き>。賞の危機を告げる鐘が鳴っているようだ。