中国の故事に「将を射んと欲すれば先(ま)ず馬を射よ」とはいうけれど、源平合戦の時代にあっては「陸上の騎射戦において、敵の馬を射るのは卑怯(ひきょう)とされている」と、司馬遼太郎さんが『義経』の中で書いている。義経さん、その卑怯な戦法を選択する。壇の浦の合戦である▼当時の水軍戦では、船頭や梶取(かんどり)を射ってはならぬという暗黙の了解があったそうだ。船頭は元はかき集められた水夫(かこ)や漁夫で戦闘員ではない。それを狙うのは武勇を競い合う合戦にふさわしい行為ではないと考えられていたが、司馬さんの描く義経はそれにこだわらない。「勝つためなのだ。全軍にそれを命じよ」▼義経も青ざめる、「勝つためなのだ」の卑怯な戦法か。訂正する。戦法ではなく酸鼻を極める暴力行為である。日本大学アメリカンフットボール部の悪質な反則プレーのことである▼パスを投げ終え、無防備な相手選手に背後からタックルする日大選手。映像に息をのんだ人もいるだろう▼若い命を奪う危険もあったプレーである。それをやればどうなるか。大学生らしい想像力も知性も人情も働かなかったのが悲しい▼タックルの選手を批判するのは義経の命令で船頭を狙った射手を責める話だろう。「勝つためなのだ」と幻惑し、曲がった行為をそそのかす何かが、日大同部や大学スポーツ全体に棲(す)んでいまいか。射るべきはそれである。