作家の向田邦子さんは一九六四年の東京五輪の開会式で聖火台に火がともるのを見て、「わけのわからない涙があふれてきた」と書いている。ちょうど家族から離れて暮らすことになったところで五輪と自分の独り立ちへの決意や感傷が涙となったか▼コメディアンの谷啓さんは開会式で航空自衛隊機が青空に五輪の五つの輪を描いたのを見て「すごいものだ」と思うと同時に自分が情けなくなったと語っている。五輪に比べ自分は何をやっているのか▼戦争から復興し、五輪を開催するまでになった。五十四年前の五輪には凝った演出などなくても国民それぞれの胸に去来する何かがあったのだろう▼さて二年後に迫る東京五輪である。その開会式は、見る者にどんな思いを抱かせてくれるか。東京五輪・パラリンピックの開閉会式の総合統括に狂言師の野村萬斎さんが決まった▼東日本大震災の「鎮魂と再生」を主題の一つに掲げてシンプルで和の精神に富んだものにしたいとおっしゃる。結構なことである。五輪に心配もある。明日、開会式があったとして感激の涙やおれだってと思える何かが果たしてあるのか。どうも国民の熱があまり高まっていない気がするのである▼足らぬのは迷走する時代にあって国民の多くが共感し、胸高鳴らせる新たな価値や意味か。復興に加え、五輪を機に人びとがともに掲げる旗がほしい。