『徒然草』で、自然を語り、芸を論じ、人生訓を説いた吉田兼好が、長い随筆の締めくくりにしたのは、父との少年期の思い出話である。八つになった年のこと。「仏はどんなものでございますか」と尋ねると、父は「人がなっているのだ」。ではその仏を教えたのはだれですか、最初の仏は-。次々に問いを繰り出し、しまいに父は笑いだしたという▼世の中のことを父に学ぶうれしさを感じる子、大人びてきた知恵に目を細める父。現代にも通じる幸せそうな光景が浮かび上がろうか▼最後に振り返ったのは、兼好にとって代え難い思い出であったからだろう。父も周囲にこの話を語り、面白がったとも書いている。父親との美しい思い出をつくるはずの時期に、その小学四年生が出合ったのは絶望である。ひとにはこう語っている。「お父さんにぼう力を受けています」と▼千葉県野田市で十歳の女児が、自宅浴室で死亡しているのが見つかった事件である。傷害容疑で逮捕された父親は、冷たいシャワーをかけたり、首のあたりをつかんだりしたという。体にはあざがあって、虐待が疑われている▼一昨年、すでに学校のアンケートを通じてSOSを発していたそうだ。自治体にしても、児童相談所にしても命を救えるきっかけと時間があった。痛恨事である▼世界に興味を持つ年ごろだろう。快活そうな写真の笑みがつらい。

 
 

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